法金剛院&花園陵
連日の猛暑・熱帯夜のおかで、どうも集中力が途切れがちで、中々文章をまとめられず一週間。
いつまでも放置しておくわけにもいかないので、過分に言葉足らずの所もあるかと思いますが、とりあえず記事をアップしておくことにします。
法金剛院は、平安初期の貴族・清原夏野の山荘を寺に改めた「双丘寺」が前身で、その後、文徳天皇の発願により伽藍が建立され「天安寺」と改称。しかし、その後は衰退したようで、平安末期の大治5年(1130)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子によって復興され、その際に「法金剛院」に改号したとされています。
当時、双ヶ丘(ならびがおか)も含む広大な寺域を領していた仁和寺に隣接するこの地が、待賢門院の御願寺に選ばれたのは、一つには女院が覚法法親王(白河院の皇子)を始め仁和寺ゆかりの高僧らに篤く帰依していたこと(後に第五皇子・本仁親王も覚法法親王の許に入室)、また、養母の祇園女御(平清盛の実母とも伯母とも)が同じ仁和寺の塔頭・威徳寺にて隠棲したいたことも関係がありそうです。
現在の法金剛院境内は随分と縮小されてしまっていますが、落慶当初の敷地は一町四方にも及び、中央に配された大きな池は、その東に建てられた御所から、西の対岸の御堂へ渡るのに舟が用いられるほど広大で、その後も、三重塔や経蔵を建てるために、南側の築垣を取り壊してさらに寺域を広げた旨も伝えられています(『長秋記』より)。
寺とは言っても、半ば別荘のようなものでしたから、建立には贅の限りが尽くされ、庭園も極楽浄土を具現するような優美なものになるよう、趣向が凝らされたようです。そして、その中でも、とりわけ待賢門院が強い関心を示したと言われるのが、現在、国の特別名勝にも指定される「青女滝」(「あおめたき」「せいじょたき」とも)。
巨岩を並べた高さ2mほどの滝ですが、現存する人工滝の遺構(1968年に発掘・復元される)としては日本最古のものとされ、作者は当時造園の名手として知られた林賢と静意。しかし、その名人を向こうに回して、待賢門院はをさらに滝の高さを5~6尺高くするよう、わざわざ注文をつけたというのですから(同じく『長秋記』より)、その執心のほども推して量るべし?
その「青女滝」と目と鼻の先に建つのが、百人一首でお馴染みの待賢門院堀河の歌の碑。
ながからむ 心もしらず黒髪の
みだれて今朝は 物をこそ思へ
待賢門院堀河は西行との贈答歌も残る女房三十六歌仙の一人。
その侍名の通り待賢門院璋子の側近くに仕え、女院が落飾した際には自らもこれに従い出家したと伝えられていますから、堀河にとっても、ここが終焉の地ということになるでしょうか。
境内の一角にある石仏群。
苔生す緑の中で、赤の前掛けがことさら目を引きます。
ところで、一つ留意しておきたいのは、待賢門院が法金剛院の建立したのが、落飾するよりも遙かに以前だったということ(康治元年(1142)に落飾)。末子の本仁親王を出産したばかりで、いずれ彼女を脅かす存在となる美福門院はまだ影も形も見えず…と、鳥羽上皇との夫婦関係もまだ比較的良好だった時期に当たります。
前年の大治4年(1129)に養父の白河法皇が崩御し、また第二皇子の通仁親王(眼疾のため「目宮」と称される)もわずか6歳で短い生涯を閉じたことから、その追善供養のために寺の建立を思い立ったのでしょう。
しかし、そうした仏事への執心が図らずも上皇の心を冷めさせ(やはり法皇の方が大事だったのか…みたいな)、二人の間の溝をどんどん押し広げることになったようにも思え、何やら皮肉めいたものも感じます。もっとも、後ろ盾の白河院が亡くなり、いずれ上皇との仲もダメになると察した女院が、わざと自分から離れたようにも…(振られる前にこっちから振ってやる!…みたいな?)。
いずれにせよ、白河法皇の庇護の許、悠々自適に送っていた前半生とは対照的に、数々の不幸や苦悩を抱え込むようになった待賢門院は、そうした鬱憤を晴らすかのように法金剛院の整備にいっそう執心。三重塔に留まらず、九体阿弥陀堂(南御堂)の造営にも着手するなど、法金剛院の拡大がすなわち彼女の悲嘆の表れのようで、何やら痛々しいものも感じます。
その待賢門院は久安元年(1145)7月22日にここ法金剛院において薨去。
遺骸は火葬に付すことなく、背後の五位山の麓に土葬されたと言います。
こちらは、待賢門院の御陵とされる「花園西陵」。
法金剛院を出て時計周りに道なりに沿って歩いて行くと、ちょうど真裏の当たりで右に入る細い路地があり、突き当たりにはお馴染みの宮内庁の立札がありますので、わりあい簡単に見つけられると思います。
なお、待賢門院亡き後、法金剛院は彼女の娘・上西門院統子内親王に引き継がれたようで、その上西門院の御陵「花園東陵」もまた、同じ五位山の東山麓にあります。待賢門院陵から東へ道なりに歩いて、やや急な下り坂の中ほど、左手に今宮神社、そのちょうど真向かいの10段余の石段上に宮内庁の立札を見つけることができます。
ということで、どうもまとまりの悪い文章になってしまいましたが、待賢門院についてはあれこれ思うこともあるので、いずれまた再稿の機会も… (^_^;)
最後に「花の寺」らしく、境内を彩っていた蓮以外の花をご紹介してお終いにしたいと思います。
次に訪れるなら、蓮が生い茂る前の池の全容が見渡せる頃でしょうか。
春の待賢門院桜に期待しますかね (^_-)-☆
いつまでも放置しておくわけにもいかないので、過分に言葉足らずの所もあるかと思いますが、とりあえず記事をアップしておくことにします。
法金剛院は、平安初期の貴族・清原夏野の山荘を寺に改めた「双丘寺」が前身で、その後、文徳天皇の発願により伽藍が建立され「天安寺」と改称。しかし、その後は衰退したようで、平安末期の大治5年(1130)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子によって復興され、その際に「法金剛院」に改号したとされています。
当時、双ヶ丘(ならびがおか)も含む広大な寺域を領していた仁和寺に隣接するこの地が、待賢門院の御願寺に選ばれたのは、一つには女院が覚法法親王(白河院の皇子)を始め仁和寺ゆかりの高僧らに篤く帰依していたこと(後に第五皇子・本仁親王も覚法法親王の許に入室)、また、養母の祇園女御(平清盛の実母とも伯母とも)が同じ仁和寺の塔頭・威徳寺にて隠棲したいたことも関係がありそうです。
現在の法金剛院境内は随分と縮小されてしまっていますが、落慶当初の敷地は一町四方にも及び、中央に配された大きな池は、その東に建てられた御所から、西の対岸の御堂へ渡るのに舟が用いられるほど広大で、その後も、三重塔や経蔵を建てるために、南側の築垣を取り壊してさらに寺域を広げた旨も伝えられています(『長秋記』より)。
寺とは言っても、半ば別荘のようなものでしたから、建立には贅の限りが尽くされ、庭園も極楽浄土を具現するような優美なものになるよう、趣向が凝らされたようです。そして、その中でも、とりわけ待賢門院が強い関心を示したと言われるのが、現在、国の特別名勝にも指定される「青女滝」(「あおめたき」「せいじょたき」とも)。
巨岩を並べた高さ2mほどの滝ですが、現存する人工滝の遺構(1968年に発掘・復元される)としては日本最古のものとされ、作者は当時造園の名手として知られた林賢と静意。しかし、その名人を向こうに回して、待賢門院はをさらに滝の高さを5~6尺高くするよう、わざわざ注文をつけたというのですから(同じく『長秋記』より)、その執心のほども推して量るべし?
その「青女滝」と目と鼻の先に建つのが、百人一首でお馴染みの待賢門院堀河の歌の碑。
ながからむ 心もしらず黒髪の
みだれて今朝は 物をこそ思へ
待賢門院堀河は西行との贈答歌も残る女房三十六歌仙の一人。
その侍名の通り待賢門院璋子の側近くに仕え、女院が落飾した際には自らもこれに従い出家したと伝えられていますから、堀河にとっても、ここが終焉の地ということになるでしょうか。
境内の一角にある石仏群。
苔生す緑の中で、赤の前掛けがことさら目を引きます。
ところで、一つ留意しておきたいのは、待賢門院が法金剛院の建立したのが、落飾するよりも遙かに以前だったということ(康治元年(1142)に落飾)。末子の本仁親王を出産したばかりで、いずれ彼女を脅かす存在となる美福門院はまだ影も形も見えず…と、鳥羽上皇との夫婦関係もまだ比較的良好だった時期に当たります。
前年の大治4年(1129)に養父の白河法皇が崩御し、また第二皇子の通仁親王(眼疾のため「目宮」と称される)もわずか6歳で短い生涯を閉じたことから、その追善供養のために寺の建立を思い立ったのでしょう。
しかし、そうした仏事への執心が図らずも上皇の心を冷めさせ(やはり法皇の方が大事だったのか…みたいな)、二人の間の溝をどんどん押し広げることになったようにも思え、何やら皮肉めいたものも感じます。もっとも、後ろ盾の白河院が亡くなり、いずれ上皇との仲もダメになると察した女院が、わざと自分から離れたようにも…(振られる前にこっちから振ってやる!…みたいな?)。
いずれにせよ、白河法皇の庇護の許、悠々自適に送っていた前半生とは対照的に、数々の不幸や苦悩を抱え込むようになった待賢門院は、そうした鬱憤を晴らすかのように法金剛院の整備にいっそう執心。三重塔に留まらず、九体阿弥陀堂(南御堂)の造営にも着手するなど、法金剛院の拡大がすなわち彼女の悲嘆の表れのようで、何やら痛々しいものも感じます。
その待賢門院は久安元年(1145)7月22日にここ法金剛院において薨去。
遺骸は火葬に付すことなく、背後の五位山の麓に土葬されたと言います。
こちらは、待賢門院の御陵とされる「花園西陵」。
法金剛院を出て時計周りに道なりに沿って歩いて行くと、ちょうど真裏の当たりで右に入る細い路地があり、突き当たりにはお馴染みの宮内庁の立札がありますので、わりあい簡単に見つけられると思います。
なお、待賢門院亡き後、法金剛院は彼女の娘・上西門院統子内親王に引き継がれたようで、その上西門院の御陵「花園東陵」もまた、同じ五位山の東山麓にあります。待賢門院陵から東へ道なりに歩いて、やや急な下り坂の中ほど、左手に今宮神社、そのちょうど真向かいの10段余の石段上に宮内庁の立札を見つけることができます。
ということで、どうもまとまりの悪い文章になってしまいましたが、待賢門院についてはあれこれ思うこともあるので、いずれまた再稿の機会も… (^_^;)
最後に「花の寺」らしく、境内を彩っていた蓮以外の花をご紹介してお終いにしたいと思います。
《桔梗》
《鬼百合》
《鬼灯》
《名残りの紫陽花も》
次に訪れるなら、蓮が生い茂る前の池の全容が見渡せる頃でしょうか。
春の待賢門院桜に期待しますかね (^_-)-☆
【このページの写真は平成19年7月28日に撮影したものです】
by kiratemari
| 2007-08-10 19:00
| 関西探訪
|
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Comments(2)
手鞠さん、今晩は♪
毎日暑いですよね~。それで、私もなかなか更新できません。
さて、法金剛院について、興味深く拝見しました。待賢門院ゆかりのお寺なのですね。可愛がってくれた白河法皇と死別し、鳥羽天皇の寵愛も失ってしまった待賢門院が晩年を過ごしたお寺だったのですね。見どころもたくさんありそうですし、何よりも待賢門院の生き様を感じられそうなので、今度京都を訪れたときにぜひ行ってみたいです。ご紹介ありがとうございました。
毎日暑いですよね~。それで、私もなかなか更新できません。
さて、法金剛院について、興味深く拝見しました。待賢門院ゆかりのお寺なのですね。可愛がってくれた白河法皇と死別し、鳥羽天皇の寵愛も失ってしまった待賢門院が晩年を過ごしたお寺だったのですね。見どころもたくさんありそうですし、何よりも待賢門院の生き様を感じられそうなので、今度京都を訪れたときにぜひ行ってみたいです。ご紹介ありがとうございました。
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えりかさん、こんばんは~♪
昼の暑さも大概ですが、熱帯夜の方がさらにツライですね。
どうしても寝不足気味になってしまって… (-_-;)
法金剛院は待賢門院ゆかりのお寺ということで、かねがね行きたいと思っていたものですから、今回ようやく実現したという感じで…。記事では省きましたが、仏殿にある阿弥陀様は平安時代のものと言いますから、かつて待賢門院も眺めていたのかと思うと感慨深いものもありました。
仁和寺や妙心寺、竜安寺など有名な寺院が集中しているゾーンの入口に当たりますので、気候の良い時期ならセットで回られるとかなり充実した旅になると思いますよ。
昼の暑さも大概ですが、熱帯夜の方がさらにツライですね。
どうしても寝不足気味になってしまって… (-_-;)
法金剛院は待賢門院ゆかりのお寺ということで、かねがね行きたいと思っていたものですから、今回ようやく実現したという感じで…。記事では省きましたが、仏殿にある阿弥陀様は平安時代のものと言いますから、かつて待賢門院も眺めていたのかと思うと感慨深いものもありました。
仁和寺や妙心寺、竜安寺など有名な寺院が集中しているゾーンの入口に当たりますので、気候の良い時期ならセットで回られるとかなり充実した旅になると思いますよ。
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