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平家断絶!?―『義経』vol.41「兄弟絶縁」

とうとうこの時が来てしまいましたか…。
思えば、昨年のキャスト発表で重衡と輔子の名を見つけた時から、これをやることはわかっていましたし、正直、この時のために、毎回不毛なツッコミを入れつつも「忍」の一字で見続けて来たのですが…。

演者二人の熱演ぶりに心を動かされながらも、それにドップリ浸れない自分が悲しい…。『平家物語』の中でも、特に強い思い入れのあるこの二人の場面―それが底の浅いお涙頂戴の茶番劇に仕立てられて…。
「これもあり」と許容できない私は「心が狭い…、狭すぎる…」のでしょう。

ということで、以下の文については、かなり頭を冷やし、冷静になって書いたつもりですが、重衡関連で半分以上を割いている点はどうかご容赦の程を。




 
今回もまた、『義経』というタイトルを忘れさせるほどに平家の比重が極めて高い1回でしたが、それにしても、1話の中で2度も首斬りをやるとは、大胆というか、デリカシーがないというか…(実は大河って切腹や首刎ねが大好き?)。

例によってエピソードの上っ面だけを適当に掬い取り、お家の事情とやらで順番も総入れ替えしてのパッチワーク。個々の素材の良さで、各々の場面場面だけを抜き取れば、まあそれなりの出来栄えながら、トータルで見るとやはり繋ぎがぐちゃぐちゃ…。今に始まったことではありませんが、ストーリーよりもシーンを重視する姿勢には異を唱えざるをえません。


とまあ、それはともかく、平家大物最後の生き残り、宗盛・清宗・重衡の3名の身柄は、元暦2(1185)年6月9日、酒匂の辺に逗留していた義経に引き渡され、京に向けて出立。

ドラマでは、義経一行が鎌倉へ向かう途に、前倒しで、南都へ送られる重衡と宗盛らの対面がここ酒匂で行われましたが、『吾妻鏡』によれば、宗盛らが京に送り返される同日に重衡も南都へ向けて出立。また、『玉葉』6月22日条に「前内府并其息清宗、三位中将重衡等、義経相具所参洛也」とあることから、義経を護送役の総責任者として、共に西へ向かったと見てよいかと思います。

一方、義経を追い返した後も、悶々と悩み続ける鎌倉の頼朝。しかし、義経と宗盛が手を結んでは一大事!だなんて、今さら何を言ってることやら…(間抜け過ぎる!)。
先週まで延々と頼朝を「情」の人に描き続けたツケが、早速回って来たってことですか。ここらで頼朝の猜疑心の深さも見せておかないと、後の話が続かなくなる…ということなのでしょうが、どうもピンボケした話の持って行き方で…。

それもこれも、頼朝という人物の性格付けが、いつも行き当たりばったりの上に、既定路線とは元々違う性質のオリジナルを無理に史実に近づけようとするのですから、歪みが生じてくるのも当たり前。終盤をいわゆる王道の義経話でまとめるつもりであったのであれば、始めから冷酷非情な頼朝像で固めておく方が無難だったでしょうに…。

なお、後追いで斬首を命じるために安達盛長を遣わしたなどという記録はなく、あくまでも、あれはドラマ・オリジナルと思われますのであしからず。

そもそも『吾妻鏡』によれば、5月16日の宗盛父子の鎌倉入りの際に、既に「死罪に行はるべし」との朝廷からの勅許も下っていたのですから、酒匂で囚人を預けられた時点で、宗盛・清宗の斬首、ならびに重衡の南都引渡しは、決定事項として義経にも伝えられていたはずです。

ただ、近江国・篠原宿に至るまでの間に刑が執行されなかったのは、真夏の盛りのこと(今の暦で7月半ば頃)、首の腐敗を考慮すると、なるべく京に近い場所まで来てから行うのが妥当だったからに他なりません。『平家物語』でも、清宗はその辺りのことを早々に察していて、「もしや…」といつまでも期待をかける宗盛とは対照的に描かれています。

そして、運命の篠原宿への到着が6月20日頃。恐らく、この辺りで南都へ送られる重衡とも別れたのでしょう。義経は前もって京に急使を送り、大原・来迎院の本性房湛豪を呼び寄せていました。建礼門院の出家の際にも戒師を務めたといわれる聖で、いよいよ処刑の迫った宗盛・清宗父子への授戒のために招かれたのでした。

処刑当日の翌21日は、朝から父子は引き離され、我が子の身を慮るあまり涙に暮れるばかりだった宗盛も、湛豪から懇々と教戒を授けられて、ようやく妄執を翻し、刑に服したと言います。しかし、今まさに首を斬られんとする時に発した言葉が「右衛門督(清宗)もすでにか」。死を迎えるその瞬間まで、愛息の身を案じ続けた痛ましい最期だったようです。

が、ドラマでは、己の死期を自ら察し、苦悩する義経への気遣いなども見せつつ、潔く死に赴く…と、これまでのダメっぷりが嘘のように、一転、聡明な人物に大変貌(死期の迫った人物の描き方の常道)。その方が、カッコいいと言えば、まあ確かにそうなのですが、南都行きを申し出た重衡といい、いやに悟り上手の平家に対し、毅然と通告できない義経や頼朝の優柔不断さが際立ってしまうのは、これまた、いかがなものか…。

そして、順序が逆になりますが、清宗の処刑は『吾妻鏡』によれば、宗盛が斬られた篠原宿ではなく、さらに京寄りに進んだ野路(のじ)駅で行われたとのこと。やはり、湛豪が戒師となり、父の最期の様子を尋ねる清宗に「立派なご最期だった」と答え、それを聞いて安堵した清宗もまた、従容として死に臨んだとしています。

なお、刑を執行する斬り手には、宗盛-橘馬允公長、清宗-堀弥太郎景光としていて、佐藤忠信が務めたのはドラマでの虚構(やはり死が近いので露出度アップ?)。その橘公長は、元は知盛の家人でありながら、源平の趨勢を見て鎌倉に走った人物であったことから、旧主の兄である宗盛を斬ったことについて、世評は芳しくなかったと言います。


さて、宗盛・清宗らの処刑が断行されるのと前後して、彼らと別れ南都に向かっていた重衡は、その途上、日野の地で妻輔子との再会を果たすこととなります。

しかし、これもドラマでは、いきなり木津の刑場に輔子が乱入というトンデモ設定に改変されていましたが、あの周りにいるのは、僧とは名ばかりの「鋸引き」や「堀首」なんて残虐刑も平気で主張するような、泣く子も黙る南都の大衆達ですよ。その前で、最初で最後の熱烈なラブシーンをおっ始めてくれるのですから…、いやはや、参りました…(汗)。

どうせ、別れのシーンと処刑を一遍に片付けられて「一挙両得」なんて安直な発想によるものでしょうが、果たして、この二つを両方ともやる必要があったものか…。

輔子という女性がキャスティングされている時点で、この夫婦の別れをやることは当然決まっていたものと思います(でなければ維盛妻と同様輔子も出さないはず)。が、それならば、そこだけを重点的にやるという選択肢をどうして選べないのか…。

重衡の武人としての器量、その堂々としたたたずまいは、既に、頼朝との対面や、南都行きを申し出る頼盛とのシーンで、遺憾なく表現されていたのですから、それとほぼ同じ内容を反芻するだけの南都大衆との遣り取りなど、別になくてよし。斬首シーンに至っては、宗盛でやるなら、同じ放送回に1度で十分のことです。

しかも、こう言っては身も蓋もありませんが、『平家物語』での重衡は、頼朝との対面時にしても、南都大衆の詮議の場でも、実は言い訳のしっぱなし(汗)。
それでも、言うべきことははっきりと言った上で、潔く裁きに従う…という、その開き直りぶりと愚直さに、頼朝も世人も感心したわけで…。その辺りの感覚は、江戸時代の武士道などとは、かなりズレた面もあり、それだけに、ここは、下手に欲張らずに、夫婦別れにのみ専念する方が懸命だったと思うのですが…。

ということで、まずは、壇ノ浦より帰京した輔子の足取りですが、いつとははっきりしないものの、南都へ渡される重衡との再会を期待して日野の地に移り住んでいたことは、『平家物語』のみならず、『愚管抄』にも記されていますので、ほぼ史実に間違いなく、ただ、その住まいについては、彼女の実姉で六条天皇の乳母であった成子(大夫三位)の家に同宿していたとも、また、その姉の口利きでいずれかの空き家を借り受けていたのではないかとの説もあります。

そして、このことは、便りか何らかの手段で事前に重衡の耳にも入っていたようで、日野が近づいてくると、重衡は護送使(頼兼)にその旨を伝え「今生の別れを」と懇願。頼兼も快くこれを許し、二人の再会は現実のものとなります。

長く待ち望んだ重衡来訪の報に、「いづらやいづら」と走り出てくる輔子。
一ノ谷での突然の生き別れから、実に1年半ぶりの再会を果たしたこの夫婦の胸に去来したものは何だったのか…。

ドラマでは浮いた話の一つもなく、妻一筋の品行方正な重衡殿でしたが(汗)、実際の所は、『平家物語』だけでも、内裏女房、千手の前と、二人の才色兼備の女性との触れ合いを描いた逸話を残す色男ですから、そんな彼の正妻としての輔子にも、少なからず思う所はあったことでしょう。もしかすると、ひどく恨んだこともあったかもしれません。

それでも、もはや、死を免れることはできない定めの夫のために、新しい小袖と浄衣(つまりは死に装束)を用意しておくといった細やかな気遣いや、処刑後には、腐敗の進んだ亡骸や首をもらい受け、荼毘に付して供養したという気丈さを見るにつけ、重衡の最期を看取るのは「妻である自分だけ」との思いを強く抱いて、この日を待ち続けていたのではないかと思います。

そこに、ようやくめぐって来た嬉しくも悲しい再会の時。
囚人の身では、小刀に至るまで一切の刃物を身につけることは許されなかったことから、重衡は額の辺の髪を少し引き分けて、口に届く辺りで食い切り(これだけは、こめかみ付近の髪を引き出して噛み千切ったドラマの方が妥当?)、脱ぎ替えた衣裳、そして、一首の歌と共にせめてもの形見として残します。

しかし、束の間の逢瀬も、後は来世での再会を約しただけで、あえなく終りを告げ、いよいよ死地に赴く夫を前に、これを引き止めることも叶わず、ただ泣き叫ぶことしかできない妻。そして、その悲痛な声に、後ろ髪を引かれながらも、断腸の思いでその場を後にする夫…。

『義経』で本来ここまでやる必要がないとは思うものの、あそこまでやるなら、なまじ中途半端なことはせず、徹底的にその世界を描き切って欲しかった…というのが本音です(さもなくば完全カット)。

これさえきっちり描いてくれていれば、後の斬首なんて、いつものお得意のナレでスルーでよいのですよ。その方が、僧兵のエキストラも必要なくなるし、史実での宗盛らの処刑との時間差もごまかせるし…と、制作者側から見ても中々好都合なのでは?

それに、白刃のきらめきと、あからさまな効果音による斬首シーンは、確かに命の終焉を端的に表せる手段ではありますが、それも毎度ワンパターンで、今回のように1度ならずも2度では、インパクトも薄まろうものですし…(清宗をやらなかったのはせめてもの救い?)。

なお、ついでながら、重衡が斬られた場所は木津の寺ではなく、木津川の河畔と目され、数千もの見物人が見守る中、南都大衆から依頼を受けた武士の手により、宗盛の処刑から2日後の6月23日に刑は執行されたようです。これにまつわる有名なエピソードもありますが、こちらは法然との面談と同様、仏教布教のための創作の可能性も高いことから、今回は割愛させていただきます。

しかし、その仏教と『平家物語』との関係に着目する時、布教活動の一躍を担う側面を持ちながら、仏敵として激しく憎むべき対象であったはずの平重衡について、どうしてここまで、好意的とも受け取れる描き方をしているのか…との疑問も(宗盛とは雲泥の差)。

それに関する興味ある一説として、重衡は、南都大衆ひいては民衆が自ら手を下した唯一の人物であったからではないか?というものがあります。

平家公達の多くは戦場での討ち死に、自害、あるいは、勅命による処刑といった形で命を落としている中で、一人南都に送られ、大衆らの裁きによって処刑が敢行されたのが、この平重衡。
処刑そのものについては「自業自得」と思いながらも、このことで、今度は重衡が怨霊となって自分達を祟るのではないかとの恐れ、それが、重衡鎮魂の機運を生み、美化へと向けさせたのではないかと…。

しかし、同じ怨霊でも、菅原道真や崇徳上皇、悪左府頼長などには、こうした艶話の一つもない所を見ると、平重衡という人物自体に、その大罪を差し引いてもなお余りある魅力を感じた人が多かった…ということでしょうか(少なくとも『平家物語』成立に関わった人々の間では)。


かくして、ここに平家男系の血筋が絶えた…というのは、あくまでもドラマ内での話。史実を見れば、維盛の子六代が怪僧文覚らの尽力により助命され、また、知盛の遺児知忠なども行方をくらましながらも存命と、今しばらくはその血筋は保たれることとなります。

また、女系で行けば、藤原隆房に嫁した清盛の娘(母は時子?)は嫡男隆衡を儲け、その娘貞子は何と後深草・亀山両天皇の外祖母となり、北山の准后(ずこう)とも呼ばれることに。

「天皇すり替え」などという下手な小細工をせずとも、清盛(時子も?)の血筋はしっかりと皇統に受け継がれていたのですから、まさに歴史は小説よりも奇なり!?…これに尽きます。
by kiratemari | 2005-10-20 19:12 | テレビ | Trackback(2) | Comments(4)
Tracked from えりかの平安な日々 at 2005-10-20 20:44
タイトル : 大河ドラマ「義経」第41回&重衡・宗盛の処刑
 大河ドラマ「義経」第41回の感想です。  今週は重衡と宗盛の処刑の場面が描かれたため、平家ファンの私にとってはかなりおいしい回でした。観ていて感動的な場面もあり、胸をしめつけられるような場面もありましたが。  しかし、ストーリー面でも歴史的な面でもつっこみ所が満載でした。例えば、重衡の処刑と宗盛の処刑は順番が逆ですし…(実際は重衡の処刑の方が二日ほどあとのようです)。 では、ドラマに沿って重衡の処刑から書かせていただきますね。  南都の僧兵に詰問されても言い訳一つしない重衡は、立派でほれぼれし...... more
Tracked from 蒼き猫の言霊日記 at 2005-10-21 10:14
タイトル : 平家終焉・・・大河ドラマ「義経」感想。
今回の秀逸はまさに重衡の最期でしょう。 南都の僧達による尋問にも、いっさい言い訳などしない重衡の男気。 兄宗盛は重衡のこの真っ直ぐさが羨ましかったと義経に告白していました・・・。 妻、輔子との最期の別れが、いままさに処刑されんとする寸前だというのは、ちょっと都合が良すぎる感が否めませんでしたが。 形見にと自らの髪を噛み切るシーンは迫真でした。なかなか噛み切れないのも真実味を帯びていました。 輔子は周りの目も気にせずに重衡に取りすがり、口づけでもするのではないかと思えるような、強い...... more
Commented by えりか at 2005-10-20 20:57 x
 手鞠さん、今晩は♪

 「重衡スペシャル」、興味深く読ませていただきました。

 刑場に乱入というあり得ない設定をしたことは私も憤りを感じたのですが、妻との別れと処刑をいっぺんにすまそうとする製作スタッフの安直さにもあきれてしまいますよね。私も、せっかくの感動が半減してしまったような気がします。

 宗盛親子は最後に見せてくれましたけれど、考えてみれば唐突すぎますよね。前回までの情けない宗盛は何だったのか…。

 平家の女系の血が天皇家に受け継がれていることは私も今回触れたのですが、これって歴史の不可思議なところというか、面白いところですよね。
 それと今回手鞠さんの書かれていた重衡や宗盛の処刑についての様々なエピソードはとても興味深かったです。
Commented by bluecat at 2005-10-21 09:43
手鞠さん、こんにちは!
トンデモ設定は重衡被斬でも同様でしね・・・私も涙しながら、「こんなのありえないでしょーっ」ってツッこんでいたことは言うまでも無く。
仏教界から見れば大罪人の重衡が、ずいぶんと好人物に描かれている理由について、手鞠さんの考察には考えさせられました。
平家の女系は図らずとも皇統に脈々と受け継がれていったという事実には、歴史もつ不可思議さを物語っていますね。
Commented by kiratemari at 2005-10-21 19:25
<えりかさん、
あの重衡の最期は、予告編を見た段階で、しっかり予想はついていたのですけどね。でも、やっぱり、ああいうやり方はやめて欲しかった…。宗盛の方は、思い入れも少ない分、まだ許容範囲内でしたけどね。
Commented by kiratemari at 2005-10-21 19:26
<bluecatさん、
女系の流れって、ついつい見落としがちですが、意外な人同士が近しい関係だったりすることもあるんですよね。もし、女系版『尊卑分脉』なんてのがあれば、歴史の見方もガラリと変わってくるんじゃないかと思います。

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