紅葉を求めて錦秋の京へvol.2 - 栂尾高山寺
写真の整理やら、いくつか要調査事項も出て来たりして、すっかり手間ってしまいましたが、改めまして京都紅葉レポの続きをば。今回取り上げますのは、実は平家とも深い縁を持つ、とある人物が開いたと言われるお寺、栂尾山高山寺(こうさんじ)でございます。
ここ高山寺は、奈良時代の宝亀5年(774)に、光仁天皇の勅願によって建立された「神願寺都賀尾坊」に始まり、その後「栂尾十無尽院」と改称し、神護寺の別院とされていたようですが、その神護寺でさえ平安時代末期にはすっかり荒廃して、かの文覚が復興に奔走したという話があるぐらいですから、こちらは言わずもがなでしょうね。
その後、鎌倉時代に入り文覚の弟子の明恵房高弁が、後鳥羽上皇や近衛・鷹司・西園寺家などの帰依によって堂坊の復興に努め、建永元年(1206)に後鳥羽上皇より下賜された「日出先照高山之寺(日出でて先ず照らす高山の寺)」の額にちなみ「高山寺」と改称されたことから、この明恵上人が実質的な開基と位置づけられています。
明恵上人は、承安3年(1173)紀伊国に生まれ幼名は薬師丸。父は平重盛の家人で高倉院の武者所に勤仕した平重国、母は湯浅宗重の娘と言われ、この母方の祖父・湯浅宗重は、平治の乱の際に熊野詣での途上急遽京へ引き返す平清盛に助力した他、屋島の合戦後辺りで一門から離脱した平忠房(重盛の子)を一時匿っていたことでも知られる平家の有力御家人の一人でした。
しかし、8歳になった治承4年(1180)1月にまず母が病死し、次いで父も同年に挙兵した頼朝制圧のための東国遠征において戦死。孤児となった明恵は、翌養和元年(1181)の8月に母方の叔父で文覚の弟子だった上覚を頼って9歳で高雄神護寺に入り、16歳で出家した後は東大寺や建仁寺にも学び、華厳・真言・律・禅等の奥義を体得したと言います。
その他には、建礼門院に戒を授けたという話も伝わっているようですが、壇ノ浦の合戦のあった元暦2年(1185)当時での明恵の年齢はわずか13歳。その年に仏門に入ったとされている女院に戒を授けるなどいくらなんでもありえないことですから、事実としても、出家後の女院のそれも晩年に近い頃の話だと思われます。
ところで、壇ノ浦当時で13歳というと、『平家物語』において、やはり文覚の弟子となったといわれる六代(維盛の子)と大よそ同じくらいの年齢。明恵も平家の中でも特に小松家を主筋としていたとおぼしき家柄の出ですから、高雄で二人が机を並べて共に学んだ時期もあったのではないでしょうか。いや、もっと妄想に走れば…、
「実は明恵と六代は入れ替わっていた!」
なんてミステリー風歴史小説も書けそうな…
※他愛もない妄想ですので、決して真に受けないで下さいませね(爆)。
それはさておき、高山寺といえば、まず思い浮かぶのは「鳥獣戯画」でしょうね。
正式名称「鳥獣人物戯画」の絵巻物は高山寺に伝わる国宝ですが、これは作者に擬せられている鳥羽僧正覚猷(かくゆう)が高山寺ゆかりの僧だったわけではなく、明恵に帰依していたある貴族が、彼の死後に高山寺へ寄贈したという話のようです。現物は東京国立博物館(甲・丙巻)と京都国立博物館(乙・丁巻)に寄託されていますが、模本が高山寺内の「石水院」にて公開されています(ガラス越しですけどね)。
その「石水院」は明恵が後鳥羽上皇より学問所として賜った建物だそうで、元は金堂の東側にあったものが明治に入り現在の場所(裏参道入口付近)に移され、その際に多少修造もされたようですが、中世以降の戦乱や火災によって堂舎は軒並み焼失した中にあって、唯一、明恵の生きた鎌倉時代から残る遺構として国宝にも指定されています。
内部には前述の「鳥獣人物戯画」のレプリカの他、同じく国宝の「明恵上人樹上座禅像」のレプリカ(これも現物は京都国立博物館に寄託)、明恵が生前可愛がっていた犬の木像(運慶作)や修行者の理想として憧れた善財童子の像など、明恵ゆかりの品々が展示されています。
しかし、この石水院の一番のお目当ては、何と言っても寝殿造りの建物から臨むお庭の紅葉でしょうね。
ところがどっこい、全体的にどうも色づきは今一つのようで少しガッカリ… (-_-;)
部分的に鮮やかに色づいている所もあるのですけどね…。
なお、この石水院に入るには入山料(紅葉シーズンのみ必要:400円)の他に拝観料(600円)も必要ですので、どうぞご注意を。
さて、この石水院を出てすぐの所にあるのが
「日本最古之茶園」。
鎌倉初期に栄西禅師が宋より茶種を持ち帰り、それを禅師より贈られた明恵はここ栂尾に植えて栽培し、そこからやがて宇治やその他の地にも広く移し植えられたということで、明恵上人は茶祖、栂尾山が茶の発祥地となっているようです。
茶園から少し参道を上った所にある開山堂。
堂内に重要文化財に指定されている「明恵上人坐像」が安置されているそうですが、非公開につき見られず…。
そして、開山堂からまた少し参道を上った所にある「明恵上人御廟」(写真の一番奥)。
明恵の座右の銘
「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」の碑(上の写真の奥の方)。
「人は阿留辺幾夜宇和の七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり.....〈中略〉.....此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり」
なかなか深い言葉ですね。
明恵の詠歌
「山のはにわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ」の碑(手前側)。
歌人としても有名だった明恵は「月の歌人」とも称され、藤原定家などとも親交があったようです。
「明恵上人御廟」から斜めに上がって行く途中にある「仏足石」。
お釈迦様の足跡を石に刻み込んだもので、実はこの足形の中にとても精緻な文様も彫られているのですが、写真にはうまく写ってませんでした(涙)。
そして、一番高い所にある「金堂」。
このお寺全体が山の斜面に建っているため、参道入口からこの金堂までの高低差はかなりのもの。と言っとも、神護寺に比べれば何と言うことはありませんが、一応そのお心積もりでおいでになるのがよろしいかと…。
それと、紅葉する木が意外に少なくて、石水院や茶園の一角に集中していますので、単に紅葉を目的で訪問される場合は少々期待はずれの感もあるかもしれません。
とはいえ、こちらの境内はかなり広めで、秋の行楽シーズンでも来訪者はそこそこ分散しますので(石水院は除く)、静寂・癒しを求める向きには三尾の中でも特にお薦めかと思います。
ということで、全体的にやや紅葉不足につき最後にサービスショット(?)を。
裏参道から石水院に至る途中で見つけた、垣根で区切られていて人は通れない小さな石段。散り敷いた紅葉が美しくて思わずシャッターを切っていました。
さて、お次は「槙尾西明寺」へご案内~♪
☆Next → 紅葉を求めて錦秋の京へvol.3 - 西明寺
☆Back → 紅葉を求めて錦秋の京へvol.1 - 出発
ここ高山寺は、奈良時代の宝亀5年(774)に、光仁天皇の勅願によって建立された「神願寺都賀尾坊」に始まり、その後「栂尾十無尽院」と改称し、神護寺の別院とされていたようですが、その神護寺でさえ平安時代末期にはすっかり荒廃して、かの文覚が復興に奔走したという話があるぐらいですから、こちらは言わずもがなでしょうね。
その後、鎌倉時代に入り文覚の弟子の明恵房高弁が、後鳥羽上皇や近衛・鷹司・西園寺家などの帰依によって堂坊の復興に努め、建永元年(1206)に後鳥羽上皇より下賜された「日出先照高山之寺(日出でて先ず照らす高山の寺)」の額にちなみ「高山寺」と改称されたことから、この明恵上人が実質的な開基と位置づけられています。
明恵上人は、承安3年(1173)紀伊国に生まれ幼名は薬師丸。父は平重盛の家人で高倉院の武者所に勤仕した平重国、母は湯浅宗重の娘と言われ、この母方の祖父・湯浅宗重は、平治の乱の際に熊野詣での途上急遽京へ引き返す平清盛に助力した他、屋島の合戦後辺りで一門から離脱した平忠房(重盛の子)を一時匿っていたことでも知られる平家の有力御家人の一人でした。
しかし、8歳になった治承4年(1180)1月にまず母が病死し、次いで父も同年に挙兵した頼朝制圧のための東国遠征において戦死。孤児となった明恵は、翌養和元年(1181)の8月に母方の叔父で文覚の弟子だった上覚を頼って9歳で高雄神護寺に入り、16歳で出家した後は東大寺や建仁寺にも学び、華厳・真言・律・禅等の奥義を体得したと言います。
その他には、建礼門院に戒を授けたという話も伝わっているようですが、壇ノ浦の合戦のあった元暦2年(1185)当時での明恵の年齢はわずか13歳。その年に仏門に入ったとされている女院に戒を授けるなどいくらなんでもありえないことですから、事実としても、出家後の女院のそれも晩年に近い頃の話だと思われます。
ところで、壇ノ浦当時で13歳というと、『平家物語』において、やはり文覚の弟子となったといわれる六代(維盛の子)と大よそ同じくらいの年齢。明恵も平家の中でも特に小松家を主筋としていたとおぼしき家柄の出ですから、高雄で二人が机を並べて共に学んだ時期もあったのではないでしょうか。いや、もっと妄想に走れば…、
「実は明恵と六代は入れ替わっていた!」
なんてミステリー風歴史小説も書けそうな…
※他愛もない妄想ですので、決して真に受けないで下さいませね(爆)。
それはさておき、高山寺といえば、まず思い浮かぶのは「鳥獣戯画」でしょうね。
正式名称「鳥獣人物戯画」の絵巻物は高山寺に伝わる国宝ですが、これは作者に擬せられている鳥羽僧正覚猷(かくゆう)が高山寺ゆかりの僧だったわけではなく、明恵に帰依していたある貴族が、彼の死後に高山寺へ寄贈したという話のようです。現物は東京国立博物館(甲・丙巻)と京都国立博物館(乙・丁巻)に寄託されていますが、模本が高山寺内の「石水院」にて公開されています(ガラス越しですけどね)。
その「石水院」は明恵が後鳥羽上皇より学問所として賜った建物だそうで、元は金堂の東側にあったものが明治に入り現在の場所(裏参道入口付近)に移され、その際に多少修造もされたようですが、中世以降の戦乱や火災によって堂舎は軒並み焼失した中にあって、唯一、明恵の生きた鎌倉時代から残る遺構として国宝にも指定されています。
内部には前述の「鳥獣人物戯画」のレプリカの他、同じく国宝の「明恵上人樹上座禅像」のレプリカ(これも現物は京都国立博物館に寄託)、明恵が生前可愛がっていた犬の木像(運慶作)や修行者の理想として憧れた善財童子の像など、明恵ゆかりの品々が展示されています。
しかし、この石水院の一番のお目当ては、何と言っても寝殿造りの建物から臨むお庭の紅葉でしょうね。
ところがどっこい、全体的にどうも色づきは今一つのようで少しガッカリ… (-_-;)
部分的に鮮やかに色づいている所もあるのですけどね…。
なお、この石水院に入るには入山料(紅葉シーズンのみ必要:400円)の他に拝観料(600円)も必要ですので、どうぞご注意を。
さて、この石水院を出てすぐの所にあるのが
「日本最古之茶園」。
鎌倉初期に栄西禅師が宋より茶種を持ち帰り、それを禅師より贈られた明恵はここ栂尾に植えて栽培し、そこからやがて宇治やその他の地にも広く移し植えられたということで、明恵上人は茶祖、栂尾山が茶の発祥地となっているようです。
茶園から少し参道を上った所にある開山堂。
そして、開山堂からまた少し参道を上った所にある「明恵上人御廟」(写真の一番奥)。
明恵の座右の銘
「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」の碑(上の写真の奥の方)。
「人は阿留辺幾夜宇和の七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり.....〈中略〉.....此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり」
なかなか深い言葉ですね。
明恵の詠歌
「山のはにわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ」の碑(手前側)。
歌人としても有名だった明恵は「月の歌人」とも称され、藤原定家などとも親交があったようです。
「明恵上人御廟」から斜めに上がって行く途中にある「仏足石」。
お釈迦様の足跡を石に刻み込んだもので、実はこの足形の中にとても精緻な文様も彫られているのですが、写真にはうまく写ってませんでした(涙)。
そして、一番高い所にある「金堂」。
このお寺全体が山の斜面に建っているため、参道入口からこの金堂までの高低差はかなりのもの。と言っとも、神護寺に比べれば何と言うことはありませんが、一応そのお心積もりでおいでになるのがよろしいかと…。
とはいえ、こちらの境内はかなり広めで、秋の行楽シーズンでも来訪者はそこそこ分散しますので(石水院は除く)、静寂・癒しを求める向きには三尾の中でも特にお薦めかと思います。
ということで、全体的にやや紅葉不足につき最後にサービスショット(?)を。
裏参道から石水院に至る途中で見つけた、垣根で区切られていて人は通れない小さな石段。散り敷いた紅葉が美しくて思わずシャッターを切っていました。
さて、お次は「槙尾西明寺」へご案内~♪
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by kiratemari
| 2006-11-30 19:21
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Comments(6)
手鞠さん、こんにちは♪
京都紅葉レポ、楽しく、興味深く読ませていただきました。
高山寺、静かで落ち着いた雰囲気のお寺のようですね。紅葉もきれいです。高低差も神護寺よりはきつくないとのこと、(神護寺には8年前の夏に行ったことがあるのですが、暑い次期だったこともありかなり疲れました)いつかぜひ訪れてみたいです。
明恵上人についてはほとんど知らなかったので勉強になりました。平家、特に小松殿一家と縁の深い人だったのですね。手鞠さんのおっしゃるように、きっと六代御前と机を並べていたこともあったと思います。そう考えると、私も色々妄想したくなってきますね。二人が入れ替わっていた…というミステリー歴史小説も面白そうです。そんな小説があったら読んでみたいですね(^^)。
レポートの続きも楽しみにしています。
京都紅葉レポ、楽しく、興味深く読ませていただきました。
高山寺、静かで落ち着いた雰囲気のお寺のようですね。紅葉もきれいです。高低差も神護寺よりはきつくないとのこと、(神護寺には8年前の夏に行ったことがあるのですが、暑い次期だったこともありかなり疲れました)いつかぜひ訪れてみたいです。
明恵上人についてはほとんど知らなかったので勉強になりました。平家、特に小松殿一家と縁の深い人だったのですね。手鞠さんのおっしゃるように、きっと六代御前と机を並べていたこともあったと思います。そう考えると、私も色々妄想したくなってきますね。二人が入れ替わっていた…というミステリー歴史小説も面白そうです。そんな小説があったら読んでみたいですね(^^)。
レポートの続きも楽しみにしています。
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ともp
at 2006-12-01 13:43
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手鞠様、こんにちは。
高山寺の紅葉、色づきはいまひとつとおっしゃっていますが、カメラマンの腕のおかげか、とてもきれいですよ。
家庭の事情でなかなか外出できない私ですが、おかげ様で、紅葉狩りができました。ありがとうございました。
明恵上人については、少し興味があって、白州正子「明恵上人」、河合隼雄「明恵 夢を生きる」、山本七平「日本的革命の哲学」の三冊を読んでいたのですが、北条泰時(私はこの人、というか鎌倉北条氏が大好きなので)との関係に興味が集中していて、平家との関係は盲点でした。
六代御前と机を並べていたことは絶対あったと思います!
手鞠様、えりか様に続いて私も妄想にふけりたいと思います。
次は、槙尾西明寺ですね。楽しみにしております。
ところで、「風林火山」の謙信の画像をみました。ビジュアルとしては、なかなかいいのでは?と思いました。
大好きな俳優さんたちが何人か出演されますし、ちょっと楽しみになって参りました。ただ、私が楽しみにした大河はまったく期待はずれに終わり(義経)、あまり期待していなかった大河が面白かった(新選組!)ので、あまり期待しないで、楽しみたいと思っております。
高山寺の紅葉、色づきはいまひとつとおっしゃっていますが、カメラマンの腕のおかげか、とてもきれいですよ。
家庭の事情でなかなか外出できない私ですが、おかげ様で、紅葉狩りができました。ありがとうございました。
明恵上人については、少し興味があって、白州正子「明恵上人」、河合隼雄「明恵 夢を生きる」、山本七平「日本的革命の哲学」の三冊を読んでいたのですが、北条泰時(私はこの人、というか鎌倉北条氏が大好きなので)との関係に興味が集中していて、平家との関係は盲点でした。
六代御前と机を並べていたことは絶対あったと思います!
手鞠様、えりか様に続いて私も妄想にふけりたいと思います。
次は、槙尾西明寺ですね。楽しみにしております。
ところで、「風林火山」の謙信の画像をみました。ビジュアルとしては、なかなかいいのでは?と思いました。
大好きな俳優さんたちが何人か出演されますし、ちょっと楽しみになって参りました。ただ、私が楽しみにした大河はまったく期待はずれに終わり(義経)、あまり期待していなかった大河が面白かった(新選組!)ので、あまり期待しないで、楽しみたいと思っております。
えりかさん、こんばんは~♪
高山寺のあの森の中にいるような静けさが私も好きで、何度行っても飽きないですね。まだ紅葉の時期にしか行ったことがありませんが、こちらなら夏場でも避暑になりそうに思います。
明恵上人は文覚の弟子という所から興味を持ったのですが、六代と年齢が近いと気づいたのは実はこのレポを書いている最中でした(汗)。まだまだ復興途上の神護寺なら、まだまだ人も少なく所帯も小さかったでしょうから、六代が文覚の許で僧になったという『平家物語』の話が大嘘でない限り(爆)、確実に接点はあったと思います。
高山寺のあの森の中にいるような静けさが私も好きで、何度行っても飽きないですね。まだ紅葉の時期にしか行ったことがありませんが、こちらなら夏場でも避暑になりそうに思います。
明恵上人は文覚の弟子という所から興味を持ったのですが、六代と年齢が近いと気づいたのは実はこのレポを書いている最中でした(汗)。まだまだ復興途上の神護寺なら、まだまだ人も少なく所帯も小さかったでしょうから、六代が文覚の許で僧になったという『平家物語』の話が大嘘でない限り(爆)、確実に接点はあったと思います。
ともp様、こんばんは~♪
カメラマンの腕というより、デジカメの性能の良さですね。
写真にしてみると、思いの外、紅く写っていてビックリしたぐらいで…(^_^;)
これで少しでも紅葉狩り気分を味わっていただけるなら、こちらとしましても嬉しいかぎりです。
明恵上人に関しては、文覚繋がりで「小説のネタにできるかも?」と飛びついたのが最初だったので(汗)、承久の乱の際の北条泰時との遣り取りなどは、この記事を書くに当たって初めて知ったという具合でして…。まだまだ鎌倉まではフォローできていないので、もっと妄想の幅を広げるためにも、これを機会にもう少し色々な書物に触れて、後の時代の事柄もリンクしておかないといけませんね。
謙信の画像、私も見ましたよ。妖しさ全開のクールビューティーといった所でしょうか。
何だかんだ言いながらも、女性キャストの弱さが功を奏して、久しぶりに戦国時代らしい男くさいドラマが見られるんじゃないかとも思っています。でも、断じて期待は持ちません!(笑)
カメラマンの腕というより、デジカメの性能の良さですね。
写真にしてみると、思いの外、紅く写っていてビックリしたぐらいで…(^_^;)
これで少しでも紅葉狩り気分を味わっていただけるなら、こちらとしましても嬉しいかぎりです。
明恵上人に関しては、文覚繋がりで「小説のネタにできるかも?」と飛びついたのが最初だったので(汗)、承久の乱の際の北条泰時との遣り取りなどは、この記事を書くに当たって初めて知ったという具合でして…。まだまだ鎌倉まではフォローできていないので、もっと妄想の幅を広げるためにも、これを機会にもう少し色々な書物に触れて、後の時代の事柄もリンクしておかないといけませんね。
謙信の画像、私も見ましたよ。妖しさ全開のクールビューティーといった所でしょうか。
何だかんだ言いながらも、女性キャストの弱さが功を奏して、久しぶりに戦国時代らしい男くさいドラマが見られるんじゃないかとも思っています。でも、断じて期待は持ちません!(笑)
高山寺〜(≧▽≦)
鳥獣戯画好きなのでたまりません。
まだ、一度も足を踏み入れていない場所なので、じっくり読ませていただきました。
石段に敷き詰められた楓の写真がとても好きです。
人が入ることがないので、あんな綺麗な情景を作っているんですねぇ。感動です。
鳥獣戯画好きなのでたまりません。
まだ、一度も足を踏み入れていない場所なので、じっくり読ませていただきました。
石段に敷き詰められた楓の写真がとても好きです。
人が入ることがないので、あんな綺麗な情景を作っているんですねぇ。感動です。
さくらさんのブログのスキンも今は鳥獣戯画ですものね。
お好きなんだなと思っていました(*^_^*)
最後の石段の紅葉は落ちてすぐでもないようで、やや葉が縮れ気味だったのですが、発色はよくてとても綺麗でした。やはり人が踏みつけると落ち葉もどんどん色あせてしまいますからね。
お好きなんだなと思っていました(*^_^*)
最後の石段の紅葉は落ちてすぐでもないようで、やや葉が縮れ気味だったのですが、発色はよくてとても綺麗でした。やはり人が踏みつけると落ち葉もどんどん色あせてしまいますからね。
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