想夫恋・小督 ― vol.2 史実に見るその背景
前回 は 『平家物語』 における 「小督」 についてまとめてみましたが、ここからは史実と照らし合わせながら見て行くことにします。
まずは 「小督」 の出自から行きますと…。
小督は桜町中納言と称された藤原成範の娘。
「小督」という名は、前回にも触れた通り侍名(さぶらいな=芸名のようなもの)であって、実名は明らかではないものの、当時は父親の諱(いみな)の一字をとった命名例が多いので(清盛の娘で盛子など)、「成子」「範子」がまず候補に挙がり、「範子」は彼女が生んだ内親王の名になっていることから、実名は「成子」と推定する説もあります。
また、生年については、中山忠親の日記『山槐記』の治承4年(1180)4月12日条の中に、当年もしくは前年において「23歳」と言及している箇所がありますので、そこから逆算して保元2~3年(1157~1158)頃と推定。これによると、高倉天皇より3~4歳上、中宮徳子より2~3歳下ということになります。
さて、父の成範は「黒衣の宰相」と称された信西入道(藤原通憲)の子で、後白河院の乳母であった紀二位こと藤原朝子を母としていましたから、後白河院とは乳兄弟の間柄。
祖父に当たる信西入道は、ご周知のとおり、平治の乱において自害に追い込まれ(殺害されたとも)、成範を含めたその子息達も軒並み流罪に処されましたが、動乱が収束に向かい、世の中が鎮まってくると程なく召還されて、特に朝子を母とする成範・脩範(ながのり)兄弟は、院の側近として順調な昇進を遂げ、最終的にはそれぞれ正二位権中納言・正三位参議まで上っています。
『平家物語』では、小督は中宮女房とされていますが、実際の身分は内裏女房(=広い意味で高倉天皇に仕える女房)で、これも後白河院と気脈を通じる父成範の縁故があってのことでしょう。あるいは、法皇の胸の内には、美貌の小督であれば、平家の威光を背負う中宮の強力な対抗馬にもなり得る…との目論みもあったかもしれません。いずれにしても、徳子が帝と小督のキューピッド役を担ったというのは、彼女の立場からして、まず有り得ないことだったと思われます。
ところで、父の成範についてもう少し続けますと、実はこの方、平家とはちょっとした曰く付きの人間だったりもします。
話は遡って保元の乱の直後、暗主とも評された後白河天皇の後見役として、僧形ながら政治の実権を握った信西は、二大軍事勢力の一つ平家の棟梁・平清盛と提携を結び、その証として双方の子女、つまり成範と清盛の娘との縁組もまとまったのですが、ところがどっこい、平治の乱で信西が亡くなると、保身を図る平家から無情にも絶縁状を叩きつけられたという苦い過去が…(おかげで流罪にもなるし…)。
この時、成範の妻となった(or なるはずだった?)女性は、後に花山院兼雅に正妻として再嫁しており、このことは『古女拾い(ふるめひろい)』の話として知られています。
ということで、こうした因縁のある成範と平家ですから、さぞや腹の底にドロドロしたものを抱える気まずい関係かと思いきや、成範の本心の方はちょっと測りかねますが、こと平家側に関しては、どうやらそういう気持ちはまるでなかったようで…。
というのも、治承3年(1179)11月に、清盛がその武力を背景に、後白河院の近臣をことごとく粛清する一種のクーデターを起こし(関白・松殿基房や太政大臣・藤原師長も流罪に)、同時に彼らと隔離する意味もあって法皇を鳥羽殿に幽閉するという暴挙に出たのですが、この際にも、成範・脩範の兄弟は処分の埒外に置かれただけでなく、僧籍に下っていた兄弟の静賢法印を含めたこの三人だけは、特別に法皇の許への出入りも許されています。
この事実を見る限り、法皇の乳兄弟という立場を差し引いても、当時の清盛の成範らに対する信頼度は思いのほか高く、法皇との仲介役として、欠くべからざる人材と認識していたものと思われます。もっとも、そこには、平治の乱の時の心無い仕打ちに少なからず負い目を感じ、その扱いには慎重にならざるをえなかった弱味もあったかもしれませんが…。
それはともかく、極悪人描写がスタンダードの『平家物語』の暴君・清盛像からは一旦離れ、こうして両者の関係を改めて眺めてみると、いくら天下の平相国入道といえども、成範の娘である小督に対して、力ずくで尼にしてしまうなどという常軌を逸した仕打ちを果たして行うことができたものか…、甚だ疑問が残ります。
一部には、とても気配りのきく思慮深い人物だったとの評も残す清盛のこと(『十訓抄』など)、たとえ心中は穏やかでなかったとしても、安易に手出しのできる相手でもないような…。ただし、清盛のあずかり知らぬところで、平家一門内の誰か、例えば義弟の平時忠などが独断で強行した可能性まで否定できるものではありませんが…。
小督の出産が、鹿谷事件の起きたのと同じ治承元年(1177)ということで、産み月(11/4)から逆算すると、事件発覚(5/29)以前に、既に懐妊が判明していた可能性も高く、その当時はまだ中宮徳子に皇子がいなかった事情も鑑みて、「小督の懐妊が鹿谷事件の引き金となったのではないか?」との見方もあったりします。平家以外の女性から皇子誕生の可能性が生まれたことで、反平家側の動きが急激に活発になった…。もしくは、それを危険視した平家が先手を打った…。
結果的に小督が生んだのは女子で、皇位継承問題に影響を及ぼすことはなかったものの、このまま寵愛が続けば、遅かれ早かれ男子誕生も時間の問題との危惧を抱けば、その存在を目障りに思うのも自然の流れ。ましてや、検非違使別当として強盗の手首を切断させた(『玉葉』『山槐記』治承3年5月19日条)ほどの武闘派の時忠であれば、天皇の血の繋がった伯父という立場も手伝って、暗殺 or 追放 といった非常手段に訴えることも、全く有り得ない話とも言えないような…。
思えば、かの有名な「平家にあらずんば…」の迷言も、『平家物語』には時忠の発言と明記してはいるものの、実際には清盛と誤認している人が多い現実を踏まえると、『平家物語』における清盛の悪逆非道の数々も、丸っきり捏造というわけでもなく、案外、時忠が引き起こしたものが巧みにすり替えられているということもあるかもしれませんね。
閑話休題。
小督に話を戻しまして、その足跡を確実性の高い史料に求めてみますと、まず『玉葉』治承元年(1177)11月4日条に、高倉天皇の皇女・範子を出産したことが見えます。
高倉天皇にとっては第2子に当たる女二の宮で、この姫宮は生まれてすぐに中宮徳子の猶子(養女)とされ、翌治承2年(1178)6月には内親王宣下を受けた上、賀茂斎院に卜定されています(『山槐記』6月27日条)。
さらに『山槐記』治承4年(1180)4月12日条によると、小督は範子内親王を出産後は二度と参内せず、治承3年の冬に出家して尼になったとの記録も見られます。しかし、出家の動機については『有子細歟、不知其由』(子細あるか、その由知らず)と何やら意味深なことを書いているものの、真相は藪の中。
その後の消息についても空白のまま時は流れますが、元久2年(1205)に、嵯峨で病床にある小督(49歳頃)を百人一首の撰者として知られる歌人・藤原定家が見舞ったことが彼の日記 『明月記』(同年閏7月21日条)で確認される他、彼の同母姉に当たる健寿御前も、自身の回想録 『たまきはる』(建春門院中納言日記) の中で、やはり嵯峨で隠棲する彼女と会ったことを記しています。
かつて建春門院(高倉天皇の実母)の女房だった健寿御前は、承安4年(1174)3月の高倉天皇の法住寺殿への方違え行幸の際に、内裏女房の小督と初めて面識を得たようで、その時のひときわ目立って優れた容姿を手放しで賞賛。これ以後、何かと懇意にしていたものの、小督が宮中を去ってからは音信が途絶えていたのが、20年余りも経った後に奇しくも再会を果たし(定家の見舞いと同時期か?)、若き日とはすっかり様変わりした風情に、深い感慨を覚えたとしています。
ということで、ある程度信用の置ける史料において、小督の存在が確認できるのはここまで。病床にあった彼女は快癒したのか、そのまま亡くなったのか…。残念ながら、正確な死去の時期を特定する材料は何もありませんが、参考までに、『平家物語』諸本の一つ「延慶本」では、やがて嵯峨より大原へと移った小督は、何と80歳の高齢まで長じて大往生を遂げたとしています。
これがもし事実とすれば、平家の興亡は基より、承久の乱をも越えて、その激しい世の変転を人知れず見届けた、隠れた生き証人ということになるでしょうか…。
さて、この後は小督に翻弄(?)された人々のお話など…。
vol.3 へと続きます。
まずは 「小督」 の出自から行きますと…。
小督は桜町中納言と称された藤原成範の娘。
「小督」という名は、前回にも触れた通り侍名(さぶらいな=芸名のようなもの)であって、実名は明らかではないものの、当時は父親の諱(いみな)の一字をとった命名例が多いので(清盛の娘で盛子など)、「成子」「範子」がまず候補に挙がり、「範子」は彼女が生んだ内親王の名になっていることから、実名は「成子」と推定する説もあります。
また、生年については、中山忠親の日記『山槐記』の治承4年(1180)4月12日条の中に、当年もしくは前年において「23歳」と言及している箇所がありますので、そこから逆算して保元2~3年(1157~1158)頃と推定。これによると、高倉天皇より3~4歳上、中宮徳子より2~3歳下ということになります。
さて、父の成範は「黒衣の宰相」と称された信西入道(藤原通憲)の子で、後白河院の乳母であった紀二位こと藤原朝子を母としていましたから、後白河院とは乳兄弟の間柄。
祖父に当たる信西入道は、ご周知のとおり、平治の乱において自害に追い込まれ(殺害されたとも)、成範を含めたその子息達も軒並み流罪に処されましたが、動乱が収束に向かい、世の中が鎮まってくると程なく召還されて、特に朝子を母とする成範・脩範(ながのり)兄弟は、院の側近として順調な昇進を遂げ、最終的にはそれぞれ正二位権中納言・正三位参議まで上っています。
『平家物語』では、小督は中宮女房とされていますが、実際の身分は内裏女房(=広い意味で高倉天皇に仕える女房)で、これも後白河院と気脈を通じる父成範の縁故があってのことでしょう。あるいは、法皇の胸の内には、美貌の小督であれば、平家の威光を背負う中宮の強力な対抗馬にもなり得る…との目論みもあったかもしれません。いずれにしても、徳子が帝と小督のキューピッド役を担ったというのは、彼女の立場からして、まず有り得ないことだったと思われます。
ところで、父の成範についてもう少し続けますと、実はこの方、平家とはちょっとした曰く付きの人間だったりもします。
話は遡って保元の乱の直後、暗主とも評された後白河天皇の後見役として、僧形ながら政治の実権を握った信西は、二大軍事勢力の一つ平家の棟梁・平清盛と提携を結び、その証として双方の子女、つまり成範と清盛の娘との縁組もまとまったのですが、ところがどっこい、平治の乱で信西が亡くなると、保身を図る平家から無情にも絶縁状を叩きつけられたという苦い過去が…(おかげで流罪にもなるし…)。
この時、成範の妻となった(or なるはずだった?)女性は、後に花山院兼雅に正妻として再嫁しており、このことは『古女拾い(ふるめひろい)』の話として知られています。
ということで、こうした因縁のある成範と平家ですから、さぞや腹の底にドロドロしたものを抱える気まずい関係かと思いきや、成範の本心の方はちょっと測りかねますが、こと平家側に関しては、どうやらそういう気持ちはまるでなかったようで…。
というのも、治承3年(1179)11月に、清盛がその武力を背景に、後白河院の近臣をことごとく粛清する一種のクーデターを起こし(関白・松殿基房や太政大臣・藤原師長も流罪に)、同時に彼らと隔離する意味もあって法皇を鳥羽殿に幽閉するという暴挙に出たのですが、この際にも、成範・脩範の兄弟は処分の埒外に置かれただけでなく、僧籍に下っていた兄弟の静賢法印を含めたこの三人だけは、特別に法皇の許への出入りも許されています。
この事実を見る限り、法皇の乳兄弟という立場を差し引いても、当時の清盛の成範らに対する信頼度は思いのほか高く、法皇との仲介役として、欠くべからざる人材と認識していたものと思われます。もっとも、そこには、平治の乱の時の心無い仕打ちに少なからず負い目を感じ、その扱いには慎重にならざるをえなかった弱味もあったかもしれませんが…。
それはともかく、極悪人描写がスタンダードの『平家物語』の暴君・清盛像からは一旦離れ、こうして両者の関係を改めて眺めてみると、いくら天下の平相国入道といえども、成範の娘である小督に対して、力ずくで尼にしてしまうなどという常軌を逸した仕打ちを果たして行うことができたものか…、甚だ疑問が残ります。
一部には、とても気配りのきく思慮深い人物だったとの評も残す清盛のこと(『十訓抄』など)、たとえ心中は穏やかでなかったとしても、安易に手出しのできる相手でもないような…。ただし、清盛のあずかり知らぬところで、平家一門内の誰か、例えば義弟の平時忠などが独断で強行した可能性まで否定できるものではありませんが…。
小督の出産が、鹿谷事件の起きたのと同じ治承元年(1177)ということで、産み月(11/4)から逆算すると、事件発覚(5/29)以前に、既に懐妊が判明していた可能性も高く、その当時はまだ中宮徳子に皇子がいなかった事情も鑑みて、「小督の懐妊が鹿谷事件の引き金となったのではないか?」との見方もあったりします。平家以外の女性から皇子誕生の可能性が生まれたことで、反平家側の動きが急激に活発になった…。もしくは、それを危険視した平家が先手を打った…。
結果的に小督が生んだのは女子で、皇位継承問題に影響を及ぼすことはなかったものの、このまま寵愛が続けば、遅かれ早かれ男子誕生も時間の問題との危惧を抱けば、その存在を目障りに思うのも自然の流れ。ましてや、検非違使別当として強盗の手首を切断させた(『玉葉』『山槐記』治承3年5月19日条)ほどの武闘派の時忠であれば、天皇の血の繋がった伯父という立場も手伝って、暗殺 or 追放 といった非常手段に訴えることも、全く有り得ない話とも言えないような…。
思えば、かの有名な「平家にあらずんば…」の迷言も、『平家物語』には時忠の発言と明記してはいるものの、実際には清盛と誤認している人が多い現実を踏まえると、『平家物語』における清盛の悪逆非道の数々も、丸っきり捏造というわけでもなく、案外、時忠が引き起こしたものが巧みにすり替えられているということもあるかもしれませんね。
閑話休題。
小督に話を戻しまして、その足跡を確実性の高い史料に求めてみますと、まず『玉葉』治承元年(1177)11月4日条に、高倉天皇の皇女・範子を出産したことが見えます。
高倉天皇にとっては第2子に当たる女二の宮で、この姫宮は生まれてすぐに中宮徳子の猶子(養女)とされ、翌治承2年(1178)6月には内親王宣下を受けた上、賀茂斎院に卜定されています(『山槐記』6月27日条)。
さらに『山槐記』治承4年(1180)4月12日条によると、小督は範子内親王を出産後は二度と参内せず、治承3年の冬に出家して尼になったとの記録も見られます。しかし、出家の動機については『有子細歟、不知其由』(子細あるか、その由知らず)と何やら意味深なことを書いているものの、真相は藪の中。
その後の消息についても空白のまま時は流れますが、元久2年(1205)に、嵯峨で病床にある小督(49歳頃)を百人一首の撰者として知られる歌人・藤原定家が見舞ったことが彼の日記 『明月記』(同年閏7月21日条)で確認される他、彼の同母姉に当たる健寿御前も、自身の回想録 『たまきはる』(建春門院中納言日記) の中で、やはり嵯峨で隠棲する彼女と会ったことを記しています。
かつて建春門院(高倉天皇の実母)の女房だった健寿御前は、承安4年(1174)3月の高倉天皇の法住寺殿への方違え行幸の際に、内裏女房の小督と初めて面識を得たようで、その時のひときわ目立って優れた容姿を手放しで賞賛。これ以後、何かと懇意にしていたものの、小督が宮中を去ってからは音信が途絶えていたのが、20年余りも経った後に奇しくも再会を果たし(定家の見舞いと同時期か?)、若き日とはすっかり様変わりした風情に、深い感慨を覚えたとしています。
ということで、ある程度信用の置ける史料において、小督の存在が確認できるのはここまで。病床にあった彼女は快癒したのか、そのまま亡くなったのか…。残念ながら、正確な死去の時期を特定する材料は何もありませんが、参考までに、『平家物語』諸本の一つ「延慶本」では、やがて嵯峨より大原へと移った小督は、何と80歳の高齢まで長じて大往生を遂げたとしています。
これがもし事実とすれば、平家の興亡は基より、承久の乱をも越えて、その激しい世の変転を人知れず見届けた、隠れた生き証人ということになるでしょうか…。
さて、この後は小督に翻弄(?)された人々のお話など…。
vol.3 へと続きます。
by kiratemari
| 2006-02-01 19:46
| 歴史語り
|
Trackback
|
Comments(2)
Commented
by
ともp
at 2006-02-02 14:14
x
手鞠様、こんにちは。
小督のその後はある程度わかっているのですね。以前、手鞠様に教えていただいた小説「春の夜のゆめのごとく」の影響で小督は、はかなく消えたとばかり思っていたので、びっくりしました。自分の不勉強を恥じ入るばかりです。
「小督事件の黒幕に時忠あり」の御高察、なるほどと思いました。時忠ならやりかねませんよね。
この後は小督に翻弄(?)された人々のお話ですね。続きを楽しみにしております。
追伸
功名が辻の稲葉城炎上の件教えていただいてありがとうございました。
しかし、二人のラブロマンスをドラマチックに盛り上げるために焼けてもいない城を焼きますか…。なんだかなあ…です。
小督のその後はある程度わかっているのですね。以前、手鞠様に教えていただいた小説「春の夜のゆめのごとく」の影響で小督は、はかなく消えたとばかり思っていたので、びっくりしました。自分の不勉強を恥じ入るばかりです。
「小督事件の黒幕に時忠あり」の御高察、なるほどと思いました。時忠ならやりかねませんよね。
この後は小督に翻弄(?)された人々のお話ですね。続きを楽しみにしております。
追伸
功名が辻の稲葉城炎上の件教えていただいてありがとうございました。
しかし、二人のラブロマンスをドラマチックに盛り上げるために焼けてもいない城を焼きますか…。なんだかなあ…です。
0
ともp様、こんばんは~♪
小督のその後は、『平家物語』も曖昧にぼかしているので、高倉天皇の崩御とたぶって、早死にしたように思ってしまいがちですね。いや、定家さんがお見舞いに行ってなかったら、もしかすると、後世に残らなかったかもしれない真実。そのミーハー根性(?)に感謝です(笑)。
小督事件の黒幕が時忠では?というのは、あくまでも私の妄想ですけど(汗)、でも、中々手の込んだ話ですので、完全な捏造とも思えないのですよね。「火のない所に煙は立たない」とも言いますし、やっぱり似たようなことはあったのではないかと…。
小督のその後は、『平家物語』も曖昧にぼかしているので、高倉天皇の崩御とたぶって、早死にしたように思ってしまいがちですね。いや、定家さんがお見舞いに行ってなかったら、もしかすると、後世に残らなかったかもしれない真実。そのミーハー根性(?)に感謝です(笑)。
小督事件の黒幕が時忠では?というのは、あくまでも私の妄想ですけど(汗)、でも、中々手の込んだ話ですので、完全な捏造とも思えないのですよね。「火のない所に煙は立たない」とも言いますし、やっぱり似たようなことはあったのではないかと…。
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