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決断の時!―『義経』vol.24「動乱の都」

今回は「義仲スペシャル」の巻…でしたが、その前に一言。
いい加減 法住寺殿ほうじゅうじでん と読むのはやめろー!!!

もう既に、あちこちで指摘されていて、いくらなんでも、制作陣の耳にも入っているものと思っていたのですが、未だもって、一向に改める気配がないのは、実は「裸の王様」状態ってことですか?

念のため説明しておきますと、いわゆる院御所の呼称などに関しては「殿」=「どの」、つまり「ほうじゅうじどの」と読むのが正解。他にも、「白河殿」=「しらかわどの」、「鳥羽殿」=「とばどの」など。

こういった呼称が混同される原因となっているのが、「紫宸殿」「清涼殿」「弘徽殿」などの読み方ではないかと思われます。
こちらの場合は、「個々の殿舎」=「建物そのもの」を指すので、それぞれ「ししんでん」「せいりょうでん」「こきでん」で正解なのですが、問題の「法住寺殿」は、「院御所」という広い領域全体を指すものですので、まるで別物。それを区別して、古来より「どの」と呼ばせてきた経緯を見れば、公共の電波にのせるからには、「読み方ぐらいどっちでもいいだろう」ではなく、正確な情報をきちんと発信するのが 義務 と考えますが…。



 
前置きはこれくらいにして、本題の「義仲スペシャル」の顛末…
と、その前に、都落ち後の平家の動きを少し追っておきますと、

寿永2年7月25日に京を出立した後、一旦、福原に立ち寄り、すぐに、海路で九州 大宰府 へ。
その昔、清盛が太宰大弐に任じられて以来、平家にとっては経済的・戦略的な基盤ともいうべき土地でしたから、ここに、新しい内裏を建設して「巻き返しを図るぞ!」との算段だったのでしょうが、いかに栄華を極めた平家といえども、所詮は「朝廷の威を借る○」も同然。一度、朝敵に身を落とせば、途端に、その足許も揺らぎ始めるのも世の道理というものです。

案の定、豊後の豪族 緒方維義 らの急襲を受け(後白河院の側近で豊後の知行国主 藤原頼輔の命による)、慌てて船に戻り海上へ非難。やむなく、知盛の領国であった長門へ向かいます。
【その途上、豊前・柳ヶ浦の辺りで、前途を悲観した重盛の三男 清経(経子の実長子)が、入水死を遂げたというエピソードは『平家物語』でつとに有名】

しかし、その長門もまた、源氏の手に落ちたとの情報が入り、行き場を失った平家一門は、かなりの期間、海上をさすらい続けた後、四国阿波の豪族 田口成良(成能)の勧めによって、ようやく屋島を本拠に定めることができた…という、まあ、そこに至るまでの道のりも壮絶かつ、苦難の連続だったわけですが…、ドラマではもちろん完全スルーでしたね(怒)。
何だかツッコむのもバカバカしいですが、神器返還を促す書状に、思わず食いついたあのダメ山羊さん(笑)、あれはご本人のアドリブですよね? もしも、演出だとすると…、開いた口が塞がりません…(~_~;)

さて、前回完全スルーされてた頼盛さんが改めて登場。それも、義経との無理やりな邂逅劇という形で…(-_-;)
この対面の遣り取りでいくと、初めから都落ちには加わらず京に居残る → だから、宗盛さん以下、他の皆さんも話題にすら上らせなかった…ということですかね(実際は、途中で引き返してきた裏切り者なんですが)。
頼盛の鎌倉下向自体は、『玉葉』の寿永2年10月20日条で「去る十八日、頼盛卿逐電す(夜逃げ同然ってこと?)」、11月6日条では「頼盛已に鎌倉に来着す」に始まり、頼朝との対面の模様も記されていることから、史実として間違いはなく、翌年5月に帰洛するまで(公卿補任)、およそ半年ほど鎌倉で過ごしたようです。
【この間に、一ノ谷で生け捕られた重衡も、鎌倉に送られて来ます】

それにしても、宗盛の嫡男 清宗と結婚した頼盛女 はどうなったんですかね?
結婚の事実は史料で確認できても、その後については全く不明のこの女性(父頼盛と行動を共にしたと見るのが妥当なのでしょうけど)。だから、こういうオチに困るような話は、わざわざ入れなくてもいいものを…(^_^;)
まあ、それ以前に、制作側自体が4話(1ヶ月)前の話なんて頭からすっかり抜け落ちていそうな…、また、視聴者も「そんなことまで誰も覚えていないよ」と高を括っていそうな…。

手古奈にしても、凄い変わり身の早さで、政子→時子→頼盛 と出てくる度に、主人を取っ替え引っ換え…(きちんと端折らずにやれば、それはそれで、面白そうなのに…)。しかも、ちょいと小耳に挟んだ噂によると、原作では、この後、再び、頼盛→時子と出戻り、最終的には、壇ノ浦の戦いを見守るとか何とか……だそうで、一応、キーマンの一人なのでしょうけど、ここまでのドラマを見る限りは、あまり必要性を感じませんね。いっそ、うつぼを廃して(そんなことしたらファンに怒られる?)、この手古奈をうまく有効活用できなかったものでしょうか。

そもそも、このドラマの大きな問題点の一つが、無駄に登場人物が多すぎる所でしょう。一人に凝縮すれば、一年を通じて、一本芯の通った魅力的なキャラクターにできそうなものを、わざわざ、何人かに分散させているため、それぞれの役割が小さくなり、印象も希薄 →「存在意味なし!」となってしまっています。主役を重点的に描くのももちろん大切ですが、脇役は端折られるからこそ、逆に、ドラマには現れない部分まで、丁寧にキャラ設定をしておく必要があるのではないでしょうか。


どうも雑談ばかり増えていけませんね。
いい加減、本題の木曽話に参りませんと…(^_^;)

前回の身内論争の果てに、帰途につく義経を襲う謎の刺客。弁慶がいることまでは想定していなかったのでしょうね、たった四人では、まるで相手にもならず…。
馬で颯爽とご登場の義仲殿は、お着替えも万端(笑)、余裕で間に合いましたものね。それにしても、巴が義経を襲わせるって…(前回の余韻を見事にぶち壊すようなこの話の流れは、本当にどうにかなりませんか…?)

ところで、今回の影の主役・お馴染み妖怪コンビは、回を追うごとに妖しさに磨きをかけ、近頃はかなり悪ノリ気味ですね。逆に、最初はトリオ扱いだった知康が、どんどんマトモになってきて、これまた、元のイメージからは少々離れてしまったような感も…。

まあ、それはさておき、木曽軍の狼藉に頭を痛める法皇様は、自慢の知謀(?)を駆使して、山猿の追い出し・撲滅作戦を計画(笑)。
平家追討の名を借りた西国出兵で、まずは、義仲の追い出しに成功します。

この頃、屋島に本拠を定めた平家軍は、対岸の本州側に渡り、知盛、重衡、あるいは教経らの奮戦で、備前・備中と瀬戸内沿岸を次々に支配下におさめ意気軒昂…となっており、これに、まともにぶつかっていった形の義仲軍が、不慣れな船戦で、本領を発揮できないまま、一旦敗退を余儀なくされた…というのが水島の合戦(またもや、平家の勝ち戦をスルーしますか)。そして、この後に、お徳婆ナレにもあった「妹尾(せのお)」を打ち破る、義仲軍唯一の勝ち戦が控えます。

妹尾(瀬尾)こと 妹尾太郎兼康 は平家累代の郎党。倶梨伽羅谷の合戦 で敗れた際、木曽軍の捕虜となり、どうにか生き延びていましたが、日頃はひたすら服従の姿勢を示すこの老将が、実は報復の機会を伺っていようとは、誰も気づいてはいませんでした。その兼康が、西国攻めで苦戦を強いられる義仲を、言葉巧みにまんまとだまくらかして、陣中から脱出。すぐさま反旗を翻しますが、平家本隊に合流する前に、木曽軍の追撃を受け、あえなく討ち死にとなります。

しかし、妹尾軍は2000余人(2000余でないことに注意)と言っても、そのメンツは在地の豪族らの寄せ集めの、しかも、働き盛りの精鋭は全て平家本隊に借り出されており、ほとんどが隠居状態の 老武者 などでしたから、義仲側にすれば、勝って当然の相手。むしろ、この余勢を駆って、さらに西へ軍を進めてこそ、わざわざ出張ってきた甲斐もあろうという所でしたが、ここに、京より「不穏の動きあり!」との報告がもたらされ、急遽、京に引き返すことに(『平家物語』では都の留守を守る樋口次郎兼光が使者を送って危急を知らせたとあるのですが、ドラマでは当の本人が目の前でご注進)。

その不穏の動きとは…、法皇の「山猿撲滅作戦・第2弾!」
義仲を見限り、鎌倉との提携路線へと切り替えた法皇は、頼朝の上洛を促しつつ、「十月宣旨」を下して関東の支配権を事実上容認。これに、木曽勢の本拠である北陸道まで含められていると知った義仲は、一気に不信感を倍増させます(実際は、法皇も義仲に配慮して、北陸道は除外していたので、これは誤報)。

しかも、これに、「行家の讒奏により、法皇が義仲を疎んじている」との噂まで加わったものですから、義仲も「これは黙ってられん!」と、怒り心頭。
実際に、行家と義仲の不和は、入京の当初から、既に表面化していたようで、義仲の留守をこれ幸いに、行家があることないこと吹聴していたというのも大いにありえそうですし、法皇側が意図的に讒奏の噂をまき、両者の対立を助長しようとしたとも考えられます。

いずれにせよ、義仲が都に向かっているとの報に、身の危険を察した行家は、平家追討を口実に急ぎ西国へ出立(体のいいトンズラ)、義仲軍と出くわさないように、進路もわざわざ迂回して、丹波路を取る念の入れようでした。
そして、戦陣に自ら望んで(?)やって来た以上、戦わないわけにはいかず、平家を討ち果たせば、手柄になるし、義仲ももう怖くない…と、あくまで前向き志向(?)で 室山の合戦 に挑みますが、戦下手の行家に、義仲でさえ苦戦した平家精鋭部隊との合戦に勝てる道理もなく、九死に一生は得たものの、義仲のいる京に戻るわけにもいかず、船で和泉国へと逃げ込むという、惨憺たる結果に終わります。

こうした一連の流れを平家側から見ると、わずかに「妹尾」の合戦に敗れたのみで、平家本隊としては連戦連勝。その破竹の勢いに(相手がどうであれ)、一度は離反しかけた瀬戸内周辺の豪族達も、再び平家の旗の下に集まり始め、日を追うごとに、みるみる勢力も回復。
京でも、義仲との和睦案浮上と絡み、「間もなく平家が戻ってくる!」との風聞が、まるで確定事項のように、世間を騒がせていたようです(『吉記』12/3・12/20)。

さて、その京では、せっかく追っ払った木曽兵が舞い戻って来たことで、再び治安も悪化。義仲と法皇が1ヶ月近くにらみ合いを続ける中、義仲と知康の最終会談がもたれます。
完全に有能官吏の顔になっている知康と、これをのらりくらりとはぐらかす義仲。
前回の「九郎 vs 義仲」以上に、緊張感のある場面にはなっていましたが、こういう役回りであれば、何も「知康」である必要はなかったような…。

『平家物語』を知る人の多くが「鼓判官・平知康」なる人物に期待しているのは、やはり、この後の「法住寺合戦」での奇妙奇天烈な行動でしょう(そのためにのみ存在していると言ってもいい)。それをやらないのであれば、同じ院近臣でも 高階泰経 辺りの方が、適役だったように思われます(この流れで行くと、知康が泰経に成り替り、義経の屋島への強行出陣に「待った!」をかけに来るというのもあり?)。

かくして、知康から報告を受けた法皇は、さすがに身の危険を感じ、自衛のために兵を集めて警護の強化を図ることに。これには、延暦寺や三井寺の悪僧に、近隣の武士、中には、義仲の軍から脱走した者達まで加わっていたと言います。
しかし、たとえ目的が自衛のためであろうと、法皇が兵力を蓄えるということは、自ら戦を仕掛けているのも同然(これには九条兼実も「王者の行うことではない!」と厳しく批判)。となれば、義仲も座して死を待つようなタイプの人間ではなく、この段階で、洛中を戦火に巻き込む合戦も、避けようのないことでした。

この一戦はもちろん義仲の圧勝に終わり、討ち死にした天台座主 明雲 らの首を六条河原(実際は五条河原だったとも)にさらしたとは『平家物語』にも記されていますが、異説には、明雲の首を取って鼻高々で自慢する兵に、義仲は「ナンデウサル者(そんなヤツが何だ!)」と言って、西洞院川にその首を捨てさせた…というものもあります(『愚管抄』巻五 )。剛毅さ・奔放さの点からいけば、後者の方が義仲らしいような気がしますね。

それにしても、どうも納得がいかないのが、義仲の前に引きずり出され、手を合わせて命乞いをする法皇様…。これって、どういう了見なんでしょうね。『吉記』でも、それなりの礼節をもって、五条東洞院の摂政近衛基通邸にお移ししたとあるものを…、義仲本人ならともかく、ただの一平卒にすぎない兵士に突き飛ばされるのは、あまりにもひどすぎます。むしろ、ジタバタせずに、毅然と、近寄りがたいオーラで、周りにいる者をひれ伏せさせるぐらいの演出が欲しかった所です。

それと、オープニングのクレジットに「任子」という名前があって、ずっと、誰のことかと気になっていたのですが、義仲が力づくで我が物にしたとかいう松殿の姫君のことなんでしょうね。
「任子」といえば、基房の弟九条兼実の娘で後鳥羽天皇の中宮「宜秋門院任子」が有名。名字には人一倍気を遣う兼実さんが、よもや、兄の娘と同じ名前をつけるとは考えられず、このあたりは、配慮が足りなさすぎのように思われます…(それとも宮尾本でそうなっているのか?)

松殿と義仲の関係については、前回 にも少し触れましたが、家勢挽回をかけて、むしろ、松殿の方から近づいたと見るのが妥当のようで、無理やりどころか、自らすすんで娘の婿に義仲を迎えたものと思われます(そうでないと、焼きモチ焼きの巴に、義仲は殺されてしまうんじゃないですか?)。


さてさて、何だか無理やりに義仲の横暴さをクローズアップさせて、ようやく「源氏の恥は同じ一族の自分が雪がねば!」と、戦闘モードへスイッチ・オンになった義経様(ここまで来るのに、本当、長かったですね…)。
そして、次週はいよいよ、義仲との血戦に突入(といっても、義経が討ち取るわけではない…はず?)ですが…、

ここで、最後の質問を

「予告に映ったあの川は、もしや 宇治川 のつもりですか?」

あんな小石がゴロゴロ転がった浅い浅~い河原で、いくら何でも、「先陣争い」なんて、やる意味ないですよね(ってことで、せっかくの景季さんの見せ場も華麗にスル~ですか…?)。
by kiratemari | 2005-06-22 19:34 | テレビ | Trackback(2) | Comments(4)
Tracked from えりかの平安な日々 at 2005-06-22 21:57
タイトル : 大河ドラマ「義経」第24回&無視されてしまった猫間中納言
大河ドラマ「義経」第24回の感想です。 今回は後白河法皇が光っていましたね。義仲を平家討伐に出陣させ、その留守中に行家と結び、裏では頼朝に書状を送り…。また、西国に落ち延びた平家には「三種の神器を返せ!」と書状を送っているようです。 さすが、政治というものをよく心得ています。信西入道、藤原信頼、平家の公達、義仲、行家、義経らを陰であやつり、それらの人々に勝利したという点で、彼がある意味ではこの時代の主役だったのかもしれません。 ちなみに後白河法皇は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた人なので、本...... more
Tracked from 日本史日誌 at 2005-06-25 22:08
タイトル : [大河ドラマ]義経 第24回「動乱の都」
一週間遅れの視聴。祭りに乗り遅れた気分だ。あんまり気持ちが盛り上がらない。 既に各所で詳しく言及されているので、内容はひとまず把握済み。 [http://d.hatena.ne.jp/SnowSwallow/20050619/1119187027:title] [http://d.hatena.ne.jp/yotomusi/20050619/p6:title] [http://d.hatena.ne.jp/asamioto/20050619#p6:title] [http://kiratemari....... more
Commented by えりか at 2005-06-22 21:52 x
 手鞠さん、今晩は♪

 今回の手鞠さんのご感想も、「そうそう…」とうなずきながら読ませていただきました。

 法住寺殿を「ほうじゅうじでん」と言っていたのは私もとても気になりました。多くの人が観ている大河ドラマなのですから、読み方くらいは正確にして欲しいですよね。

 それから命乞いをしている法皇さま……、何とかならないのかなと思いました。あれでは法皇の権威も威厳も何もありませんよね。仮にも最高権力者なのですから、それらしく描いて欲しかったです。これを観た人たちから、「平安時代の天皇や貴族なんてこんなものか…」と言われかねないのが残念です。

 法住寺合戦の前の義仲や行家の動向についての詳しい説明もありがとうございました。このあたりは知らなかったので勉強になりました。それと、頼盛は頼朝に招かれて鎌倉に行ったと思っていたのですが、実は夜逃げだったのですね。

 では、では、後ほどTBさせていただきますね。
Commented by kiratemari at 2005-06-22 22:53
えりかさん、こんばんは~♪ TB&コメントありがとうございます。

頼盛さんの「夜逃げか?」というのはちょっとオーバーですが、義仲の入京で、いくら主流派とは別格だと言っても、相手が義仲では「同じ平家一門だろう!」と通じず、命も危ない状態だったようですよ。もちろん、裏で頼朝の内諾を取り付けた上での鎌倉下向だと思いますけど、表立って堂々とは出かけられなかった…ということではないでしょうか。

法住寺合戦前の義仲や行家の遠征は、伝聞史料ばかりで、はっきりしない部分も多いので、どうしても『平家物語』の記述に頼らざるを得ないのですよね。「妹尾」の件なんかは、まさにそうで、大半が虚構なんじゃないかと思いますけど…(笑)。
Commented by bluecat at 2005-06-23 09:27
手鞠さんこんにちは。「ほうじゅうじでん」にはガッカリですね、私も気になっていましたが・・・誰か現場で指摘する人がいなかったのでしょうか?天下の○HKも地に堕ちましたか?!
義仲が略奪したということになっていた松殿の姫君は、伊子という名前らしいです。略奪というより、父の松殿が義仲に接近するために美貌の娘をやったというのが正解とか。この伊子は後に源(久我)通親の室となって生まれた子が後に曹洞宗の祖道元になったといわれているそうです。
いちおう、名は伝わってはいるので「伊子」とすればよいのに、なぜわざわざ「任子」としたのかは?ですね。
話を大河に戻しますが、平家の都落ち後の苦難の日々は全く描かれることなくいきなり一の谷ですか。宗盛はヤギになってしまうし(ーー;)やりたい放題ですねぇ・・・私もビックリしたのが手古奈!いつの間に頼盛の侍女になっていたのやら(^_^;)騒乱のこの時代、鎌倉↔京都を行ったり来たりしてるし、ほんと彼女を後半の語り部にしてもいいのでは?と思ってしまいます。
Commented by kiratemari at 2005-06-23 13:13
bluecatさん、こんにちは~♪

漢字の読みに曖昧な所があるのは確かですが、「ほうじゅうじでん」に関しては、『平家物語』の諸本を見ても「ほふぢうじどの」と明記されてますからね。これだけ明らかな証拠があるのですから、テロップ付きで訂正してもらいたいぐらいです。

「任子」という名前自体、どっから引っ張ってきたのか…。やっぱり、兼実の娘と混同しちゃったということでしょうかね。ドラマ内で名前を呼ぶわけでもなし、単に「前関白の姫君」とかで済むようなものを…。演じ手の顔を知っている人以外(『義経』もよく取り上げる同局の広報番組のレギュラー)、普通の視聴者はあれが誰だか…、永遠の謎だと思いますよ(笑)。

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